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沿革

おけら創成期

新潟大学管弦楽団の歴史は、1927年の当団の前身である新潟医科大学音楽部の第1回演奏会に始まります。
2017年をもって,当団は90周年という一つの里程標を置くことができました。
当時から県内各地で訪問演奏会を開いたりしていたのですが、
当時はこのほかに新潟のクラシック演奏会の主催(いわばマネージメント)をしていたらしく、
ヤッシャ・ハイフェッツ氏等高名な演奏家を招聘していたといいます。お金持ちだったのでしょうか?
それはさて置き、こんな証言があります。チェロの鷲尾勝郎先生によると、
大戦直後のおけらを池原会館(当時の練習施設)に見に行くと、楽器もそろわずなんとも貧弱だったが、
非常に暖かいものがあったとのこと。

医学部とのつながり

戦後の学制改革によって、新潟大学医学部管弦楽団と名前を変えましたが、
全学統合に合わせ、医学部だけのおけらではなく、
全学を含めたオーケストラ「新潟大学管弦楽団」へと変化します。
しかし、今でも「医学部管弦楽団」の名残はあります。
それは、医学部の人たちがおけらを非常に大事にして下さるという事です。
名誉団長の一人、宮村定男先生が医学部長だった頃、現在の大講義室を設置したのですが、
その時先生がおけらのために階段教室とせず、机椅子移動可のホールにしたのです。
おかげでいいシューボックス型の練習場を今でも使わせていただいています。

「おけら」について

新潟大学管弦楽団のことについて知らない人は、 このHPをご覧になって時々出てくる「おけら」という言葉に疑問を持つ事でしょう。
筆者も由来は知らないのですが、このおけらという言葉は新潟において不思議な浸透力を持っています。
大学に入りたての音楽に全く興味の無い学生に、「君、おけらにはいったの?」と言われた時には驚いたものでした。
とにかく、新潟大学生に限らず、新潟の人は「がたきょう(新潟交響楽団)」とともに結構知っているものです。

河地良智体制

新潟大学管弦楽団は1980年、画期的な変化を迎えます。
河地良智氏を常任指揮者に迎え(河地先生談:何回か来るようになったら、
いつのまにかそんな肩書きが付いてた)サマーコンサートがスタートします。
定期演奏会と合わせて年2回の定期イベントになりました。また河地先生の発破により、
新入団員のこれまで以上の勧誘等を行い、どんどん団が肥大化していきます。
これは河地先生が「とにかく人がいなければ何もできないんだ」ということで指示したといいます。
これと、いつからかできていた「全員参加」-選抜性をとらずみんな参加しよう、
その代わり責任も分かち合おうという理念とあいまって、「世界最大級」のオーケストラが形成されるのです。とにかく人が多い。

恩師とゲスト

我々は大変環境に恵まれています。
常任指揮者河地先生が「できうる限り本物の音楽を体験させよう」という思いをわれわれに注いで下さった賜物です。
トレーナーには風岡優先生(群響)・相葉武久先生(都響)・境野達男先生(神フィル)・守山光三先生(元新日フィル)・近藤高顯先生(新日フィル)という、
音楽性はもとより人間性にも優れた尊敬すべき先生をお迎えして、ご指導を賜っています。
また、これまでソプラノの関定子氏や、テノールの大野徹也氏、バリトンの池田直樹氏、ピアノの弘中孝氏、 ホルンの山岸博氏などをお迎えして共演させていただいています。

念願の東京公演へ

OB塚本さん(Cl・一時期副部長)の証言-それは1989年に既に計画されていたそうです。
河地先生や相葉先生などから前々からやったらどうだ、と言ってくださっていたそうですが、
1989年の執行部が計画、会場も新宿文化センターを想定して話が進められていました。
しかし総会に出した段階で、やはり学生では仕方のない資金の話が問題となって頓挫してしまいます。
それから後の三役も考えたそうですが、新潟とは勝手の違う東京の事情、
一代の執行部の期間ではどうにもなる話ではなく、長い下積み期間があってようやく3年越しの1992年、
サントリーホールで実現しました。
これは筆者の記憶-1994年のことになりますが、1995年の暮れに東京公演をやろうという話がまた持ち上がりました。
前の年にも上がりましたが、準備のための時間がないという事でだめになったということは聞いていました。
満を持しての2年計画で、当時の2回生が公演時の執行部ということで動いていました。
しかし、毎年の定演の時期である12月にサントリーホールはとれず、1月に東京芸術劇場でできそうだ、
という事が94年の夏合宿で報告されました。
しかし例年その時期は引退した4年生の卒論の時期。あまりに厳しい事がわかって総会で却下されたのです。
しかし、結局1995年12月24日、昭和女子大学人見記念講堂で第2回東京公演が無事開催されました。
そして1998年12月5日には第3回東京公演が両国・すみだトリフォニーホールで開催されました。

地元と手を携えて

O我々の1年の活動の中で重要なポジションを占めるものの中に「有明児童センター訪問演奏会」というものがあります。
毎年6月に上記の施設にて訪問演奏をするのですが、1980年からすでに20回以上回を重ね、
「子どもの頃有明児童センターでおけらの演奏を聞いて楽器をやりたいと思った」と言って入部してくる人がいるくらいです。
この訪問演奏会は楽器紹介やアニメソングのアレンジといった内容で、
一般的な教育演奏会とあまり変わりありませんが、演奏会中にやる劇や踊りは、
入部したてでまだオケにものっていない1年生が学年で協力して作り上げるスタイルをとっており、
ここにも当団の「全員参加」の理念が生きています。
また、3年に1度のペースになってしまっていますが「佐渡公演」も行っています。
1回佐渡に渡航するたびに新潟でのサマーコンサートと全く同じプログラムを1公演。
上記の有明訪問演奏会のようなスタイルをとる演奏会を1公演行ってきました。
1998年10月22日新潟市に「新潟市民芸術文化会館」というホールが完成しましたが、
そのオープニング事業の一つであるマース・カニングハム舞踊団の新潟公演で、
ジョン・ケージ作「オーシャン」を演奏し、好評をいただきました。
この公演につきましては、朝日新聞の全国版に掲載されるなど、注目されていた演奏会であったようです。

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